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《貝塚の発見》

今回は前回までの旧石器時代から一時代新しい縄文時代を知り

たいと思い、まず最初に「大森貝塚」を訪ねました。

 

大森は仕事で月2~3回訪れますが、改めて大森貝塚を見に

行ったことはありませんでした。

 

今まで何回も乗り降りしたにもかかわらず気が付きませんでし

たが、大森駅のホームに「日本考古学発祥の地」の碑がありま

す。

(大森駅ホームにある「日本考古学発祥の地」の碑)

 

また大森駅の西口を出ると、大きな広場になっており、その広

場の奥のほうに大森貝塚から出土した縄文土器を12倍したレプ

リカがあります。

(大森駅西口にある縄文土器のレプリカ)

 

《大森貝塚発見の経過》

「陸地の真ん中に海の貝ガラの厚い層があり、動物の骨さえ出

るのはなぜだろう」

 

昔の人も不思議に思ったらしくこのような伝説が生まれたとい

うことです。

 

昔、大太法師(だいたらほうし ボッチともいう)という大男

がいて、左手で海から貝をすくい、右手で野山のけものをつか

み、筑波山に腰かけて、ムシャムシャ喰っては貝や骨を投げす

てた。

 

これが積もって塚を築き、腰の重みで山頂はへこみ、足あとは

霞ケ浦と北浦になったという。

 

これが古人の壮大な貝塚の説明です。

 

東京にはダイタラボッチの伝説は多く、世田谷にはダイタ坊の

足跡(「代田」の町名のおこり)、北区王子にダイタ坊のワラ

ジの砂でできた塚の話が残っています。

 

《モース博士の大森貝塚の発見》

この「貝塚」に科学の光を当て、ここから古代の人の生活の実

態を始めて引き出したのは、東京帝国大学で動物学を教えてい

たアメリカの生物学者モースでした。

 

彼は日記の「日本その日その日」でこう書いています。

 

初めて東京へ行ったとき、線路の切割に貝の堆積があるのを、

通行中の汽車の窓から見て、私はすぐこれを本当の貝墟である

と知った。・・中略・・

 

私は数か月間誰かが私より先にそこに行きはしないかとという

ことを絶えず恐れながら、この貝墟を訪れる機会を待ってい

た。

 

その後、待望の発掘を果たしたモースは、明治12(1879)

大森貝塚の調査報告を刊行し、そこから出た土器を、ヒモ状の

文様がついていることから「縄文土器」(コードマークの土

器)と名付けました。

 

この報告書は、日本考古学のスタートを示す記念碑的作品とな

りました。

(大森貝塚記念庭園にあるモースは博士の胸像