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《豊島園》

尾崎遺跡のある春日小学校からしばらく歩いていくと、豊島園の裏手に突き当たり

ました。

豊島園はかなり広大で、裏手からかなり長い距離を歩き、やっと正面にたどり着き

ます。

(今円の近くを流れる石神井川)

 

《練馬城と豊嶋氏)

ここ豊島園は、前回とりあげた、石神井城の支城として豊嶋氏によって築かれた

練馬城の跡地に造られました。

練馬区にあるにもかかわらず「豊島園」と名付けられたのは、練馬城城主の豊嶋氏

の名にちなんだからです。

 

 

前回も少し触れましたが、豊嶋氏は1476年に勃発した長尾景春の乱で、長尾景春に

同調し、山内・扇谷両上杉氏とたたかいました。

 

この乱において、上杉方の江戸城と河越城の間に位置する練馬城は、近隣の石神井

城ともに、両城の連絡を遮断する役割を果たしました。

(豊島園)

扇谷上杉氏の家宰太田道灌は江戸城を出発し、練馬城に矢を打ち込むとともに周辺

に火を放ちました。

 

これに怒った練馬城主の豊島泰明は石神井城にいる兄泰経に連絡を取り、全軍で出

撃しました。

 

帰途途上だった太田道灌も急遽引き返して迎い撃ち、両軍は江古田原で合戦となり

ました。

 

合戦の結果、豊島方は泰明ほか一族百五十名が討ち死にし、生き残った泰経と他の

兵は石神井城に敗走しました。

 

この戦いについては「道灌があらかじめ江古田原付近に伏兵を潜ませた上で、少数

で挑発行為を行い、豊島方を平場におびき出した」と言われております。

 

練馬城は、城主の討ち死にや、従兵の石神井城への敗走により、無人とな

り、そのまま廃城になったと考えられます。

(練馬城址の大空堀跡)

訪れた日は土曜日ということもあり、家族連れでにぎわっており、550年も前にこ

の地にあったお城から多くの武将が出撃し、壮絶な戦いがあり、お城だけが残った

などとは露ほども感じられません。

(豊島園の正面入り口付近)